「二人称小説=ゲームブック」って定義しちゃってもいいよね?
ゲームブックと「かまいたちの夜」
よく「ゲームブック・・・ああ、かまいたちの夜ね」と言われることがあります。というより、ゲームブックが分からないって人に説明するときに、面倒くさくて、つい「かまいたちの夜みたいなやつ」と言っちゃうことがあります。
「かまいたちの夜だってゲームブックだ」って言えなくもないんですけどね・・・実は、かまいたちの夜と(一般的な)ゲームブックには、大きく異なる点があります。それはなんでしょう?
答え:かまいたちの夜は主人公「透」視点の一人称で書かれているが、一般的なゲームブックは「読み手」視点の二人称で書かれている。
人称が全然違うんですよね。かまいたちの夜は主語が「ぼく」なんですけど、ゲームブックは普通、主語が「君」「あなた」となります ※「ぼく」の一人称ゲームブックもあるって言えばある(はず)。
人称とは
小説における人称とは、すごーくざっくりと言うと「語り手(地の文)の視点(主語)」です。もっと丁寧な解説は小説執筆講座のサイトを探して見てくださいね。
各人称の小説について簡単に説明しましょう。
一人称小説とは
一人称小説は、「僕」「私」「俺」などが主語となる小説です。例えば「吾輩は猫である」がそうです。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た・・・
日本人なら皆、読んだことがある(よね?)この小説の主語は「吾輩」。名前が無い猫の視点で書かれています。
三人称小説とは
三人称小説は「(登場人物名)」や「彼」「彼女」などが主語となる小説です。例えば「走れメロス」がそうです。
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である・・・
日本人なら皆、読んだことがある(よね?)この小説の主語は「メロス」。登場人物とは異なる第三者の視点で書かれています。
二人称小説とは
二人称小説とは「君」「あなた」などが主語となる小説です。例えば・・・って、例えに出せるほど有名な小説が殆ど無いんですよ。しょうがないので、拙作ですが、僕のゲームブックbotから引っ張ってきましょう(という体の宣伝)。
君はこの村の住人。ある日、たった一人の肉親である妹が生贄に選ばれ、洞窟に捧げられてしまった。君は妹を密かに取り戻すことを決意し、今まさに洞窟へと忍び込もうとしている・・・
日本人なら皆、読んでほしい(ほしい!)この小説というかゲームの主語は「君」。読み手が主人公であるとして、読み手の視点で書かれています。
二人称小説は存在しない?
世の中では二人称小説を殆ど見かけません。「小説の手法に二人称など無い」と言われても納得してしまいます。
いや、そりゃ探せばあるんですよ。例えばミシェル・ビュトールの「心変わり」とか。他にも、叙述トリックの仕掛けとしてのミステリ小説など、極まれに見かけます。
とはいえ、多くは「あえて二人称に挑んだ実験的小説」だったりします。「実験的」という単語が付くこと自体、二人称小説が存在しないこと前提になってます。
さらにいえば「一人称、三人称小説って例えば何?」って聞かれれば数多が回答として挙がるのに、二人称小説だと大抵「心変わり」のみが挙がることも、二人称小説が如何に特異な存在なのかを表しています。
二人称小説は書きにくい
なぜ二人称小説は敬遠されているのか?僕は作家では無いので断定できないんですが・・・その昔に聞いた、なるほどと思った事があります。それは、読み手の考え方と小説中の「あなた」の考え方にズレがあると、読み手自身の体験として受け入れられにくい、という意見です。
例えば、先の「走れメロス」のワンシーンについて、主語を「メロス」から「君」に変えて見ましょう。すなわち「走れ君」。
・・・聞いて、君は激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
君は、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち君は、巡邏の警吏に捕縛された。・・・
いやいや、僕はこんな短気じゃないし、無鉄砲に侵入したりなんかしませんよ。しっかり計画立てて夜襲するとかでしょ。
ほかにも、妹の結婚式に出席した、その夜のことなんかも、
・・・君は笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。君は跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。君は、悠々と身仕度をはじめた・・・
いやいや、友の命が掛かっているんだぜ、寝ているんじゃないよ!しかも寝坊かよ!大丈夫じゃないよ!なにその訳わかんない根拠!のんきに身支度なんかしてなくて、さっさと行けよ!ていうか、身支度って何だ?ひげそりとかかよ!
・・・とまあ、これを「僕」自身の体験として受け入れるには、行動原理が違いすぎて無理なのです。
二人称小説の正当進化がゲームブック
というわけで、二人称小説は読み手が納得しながら読み進めるのが難しい。読み手の体験だと断言している以上、二人称小説は、作り手と読み手の双方が対等となって物語を進めていくべき。しかし、読み手が情報を提供する間も無く、どんどんと話が進んでいってしまう・・・
この問題を上手に解決したのが、ゲームブックです。
ゲームブックは、物語の合間合間に挟まれた選択肢(行動)によって、読み手の考えを取り入れることができます。「君ならどうする?」と作り手が問えば、「僕ならこうする」と読み手が答え、それによって結果が変わる・・・
例えるなら、作り手と読み手がテニスのラリーをしているようなもので、ラリーを続けながら一つの作品が出来上がるのです。
ゲームブックは、二人称小説の正当進化なのです。
ってことは「二人称小説=ゲームブック」?
さて、上記のポイントをおさらいすると「ゲームブック以外だと二人称小説は殆ど無い」「ゲームブックは二人称小説の正当進化である」となります。
なら「二人称小説=ゲームブック」って定義しちゃってもいいよね?だって、無いんでしょ。
というのが、僕の主張であり、ゲームブック観でもあるのです。
そもそも、ゲームブックは小説か?
ここまで書くと絶対に「ゲームブックは小説じゃないよ」っていうツッコミが入ります。
いやいや、ゲームブックは立派な小説ですよ。皆さんがどう思うかはさておき、僕にとっては。だって、作り手が文章で表現した世界(思い、体験)に、読み手が入り込む、他の小説となんら変わりませんよね。
ゲームブックとは分岐がある小説であり、文学なのです。
さいごに
ゲームブックの一ファンとしての考えを述べさせて頂いたんですが、ここらへん、ゲームブック作家やゲームブック以外の作家がどう思っているのかは、ちょっと興味があるところ。
「人称で小説をカテゴライズするな!」とか「ゲームブックの楽しみ方はそうじゃない!」とか、言われそうだな。
という訳で、ゲームブックをこういう観点で捕らえても、面白いんじゃないでしょうか。